2009年01月14日

シーシュポスの例ーカミュ5

今日はたまたま、ネットでおもしろい文章を見つけたので載せる事にします。

これもまた、自分の意識の外から動かされる例について述べているとも、読めるように思います。


『ほぼ日刊イトイ新聞』 1.13.2009から

忘れてんだーっ!
 「あなたは眠くなってから寝るから」と、
 家人に言われたときに、
 「え。みんなそうじゃないの?」と思ったのでした。
 ちがうんだって。
 寝る時間になったら寝るんだって‥‥。
 ああああ、そういえば、そうだったよ!
 寝るって、寝る時間になったら、寝ること。
 いつのころからか、ぼくは、
 「起きていられなくなったら寝る」と、
 考えちがいをしてました。
 考えちがいというより、忘れてた、ふつうの就寝を。

 これは、「ほぼ日」をはじめてからの副作用です。
 初期のころに、寝るのがもったいないとか思いつつ、
 新しいインターネットの新聞とかをやりはじめていて、
 こんなんなっちゃったのでした。
 
 そういえばね、ベッドに入ったら、
 すぐに眠れるのが自慢だったんだけど、
 眠くてしょうがなくなってから床にはいるから、
 すぐに寝ちゃうというわけだったのね。

 今年は、こういうのやめようと思いました。
 眠くならないうちに、就寝の態勢につく。
 そして、自然にしだいに眠るのを味わう。
 これで行きます。

・そういえば、部屋の掃除にしても、まちがってたなぁ。
 散らかったり、汚くなったら掃除する。
 そういうふうに思っていたけれど、これはちがうな。
 散らかってなくても、汚れてなくても、
 その前段階にはあるんだから、日々、掃除する。
 これが正解だったんじゃないか‥‥。
 そりゃ、下着だって汚れてないと思っても、
 毎日着替えるもんな。
 食事の前、汚れが見えなくても、手を洗うもんな。
 このような基本的なことを、還暦になって、
 ようやく「理解した」ワタクシを、お笑いください。


posted by OJ at 05:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 実在主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

『シーシュポスの神話』ー カミュ4

やるか、やらされるか。

この世界における不条理性とは、自分の意思に関係なくやらなければいけないことがあるということ。

やらされている段階は、運命に引きずられている状態。

そもそも、運命とは、自分がいてはじめて発生するもの。(人を起源としている)


例として、『シーシュポスの神話』をあげる。

1.あらすじ

神の怒りをかったシーシュポスは、重たい岩を山の頂上までもちあげなければいけないという刑罰を課せられる。
しかし、岩が山の頂上につくとその重みで岩はふもとまで落ちてしまう。
その岩を永遠に頂上へと持ち上げるという神からの刑罰をうける。
「どうせ岩を上げても落ちてしまうだけ。自分のやっていることは意味無い」
でもそれを永久にやらされるという神の意図した刑罰にくるしむが、その宿命を受け入れた瞬間から、シーシュポスにとってこの刑罰は悦びに変わった。。



2.解釈

はじめ、シーシュポスは、運命に流されている。

これは自分の外からの力で決まった運命ともいえる。
というのも、運命は理解不可能なもの。論理で説明できないもの。なぜなら、運命というのは、人間以上のものであるので、神々によってもたらされたものであるから。
もしくは、この「運命」というのは、現在社会でいきていくうえでの制約やルールと置き換えてもいいかもしれない。



しかし、そこで彼は岩を運ぶ事が彼の使命であると受け入れ、それを遂行しようとする。
その時点から、岩を運ぶという事は、彼が行った結果となる。
しかし、その運命を不条理として、認識、取り込む。自分がいてはじめて「自分の運命」がなりたっていると気づく事が出来れば、運命は自分の下に来る。
「自分があって、そして運命がある」−「人生は自分のもの」−「自分の重要性に気づく」―「人生は自分が築いている」
つまり、運命は彼の後からついて来るようになる。

カミュはこの作品の中で、「それぞれの運命があるにしろ、人間を超えた宿命などありはしない」と書いている。

でも彼が岩を運ぶのを続ける事を「やる」と思ったときから、この世界は外から与えられたものではなくなる
彼がその世界をつくるようになる。そのため、この世界は彼の意思のものであり、くだらないものではもうない。
それはこの世界で生きるうえでの喜びとなる。


もちろん、岩を運ぶのはしんどいこと、嫌な事というのは変わらない。やらなければいけないことは変わらない。

苦しみは「生きたい」(地上への情熱)(p212)という自分の情熱を前提にしてある。
「生きる」=運命を背負うという事。
なので、どうしても運命から逃げることはできない。
そのときに、運命にいやいや従うか、運命はそもそも自分のものであると認識して、それに立ち向かうか?

人は、やりたい事だけではなく、やりたくない事柄でもそれをすすんでやる人にこそ、かっこよさを見るように思う。


ここで小さな例をあげておく。「アイスを買って1ドル払う」

アイスを買った時点で、1ドル払うのは義務。
万引きという事も考えられなくはないが、その代償からみて選択肢からははずす。

さてここで、その1ドルを払うのか、払わされるのか?(やるか、やらされるか?)
願望としては、払わないのがベストだが、自分の思いとは関係なく、「1ドルを渡す」ということをしなければいけない。

ここで「払わされた」場合、
それは外からのルール、(運命)にしたがって行動した事になる。
言い換えれば、「1ドルを払う」というシナリオがあって、それ通りにうごいただけ。(運命に自分は動かされた。)
これは運命に対する「あきらめ」ともいえる。

ここで「払った」場合、(不条理を認識した場合)
まず、自分は、「1ドルを渡す」という状況に置かれている事を認識する。それがたとえ自分が渡すのを嫌がっても、渡すという状況にあることは変わらない。

自分は、「1ドルを払う」という状況に、「それでいい」と思う。
「それでいい」と思い、1ドルを渡すと、それは自分の意思によって動いたことになり、運命は自分の意思のあとについてくることになる。
自分の意思によって、「1ドルを払う」という行動をする。(世界は行動の集合体でできている)

「1ドルを渡さなければいけない」という状況があったとして、それを理解してその宿命を「やる。それでいい。」と思った瞬間から、自分は自分の意思に従って動くようになる。
これは「あきらめ」とは違う。



そもそも、運命とは、自分のために用意されているものである。
自分の存在がいてはじめてその「自分の運命」というものが作られる。

運命にふりまわされてはいけない。
そして宿命に立ち向かっていく姿こそ、英雄の姿である。
posted by OJ at 17:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 実在主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月25日

英雄(『神話の力』から)

カミュを読んでいく上で「英雄」という言葉をちゃんと理解していくべきだと感じた。

そして、たまたま見つけたジョーゼフキャンベルの『神話の力』という本の中で、ぴったりの表現があったので、引用しておく。


彼によると、「英雄」と「有名人」はまったく違う。
英雄となる、もしくは「何かを成し遂げるためには、自分をささげなくてはならない。」

「自我や自己保存を第一に考えるのをやめたとき、私達は真に英雄的な意思変革を遂げるのです。


そしてさらに、「その英雄がみずから捧げた思想が許しがたいものだ」という時でも、「なされた行為に本来備わっているヒロイズムは損なわれません。」


そうした行為のうえに、信頼であったり、尊敬であったりが育っていく。
posted by OJ at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 実在主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月22日

不条理に気づくヒント〜カミュ3

さっき、不条理を理解する上での大切な文章を見つけた。

カミュは不条理のことを「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死にものぐるいの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対時したままである状態」(シーシュポスの神話、p42.新潮文庫)だという。

つまりこれは、(不条理)=(個人が世界について気づいたこと)ー(論理で説明できること)

なので、いかに論理でカバーできない部分の世界に気づくか、そしてその論理で説明できないという気持ち悪い状態のままで自分のなかに取り込んで置けるかということになるだろう。
posted by OJ at 03:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 実在主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

不条理の例〜カミュ2

この前に書いた「不条理」という言葉の説明として、カミュがよく使っている例に「死」がある。

人は確実にいつか死ぬということは事実としてある。
けれど僕は死を意識しながら生きている訳ではない。そして死をなにか怖いものと感じていて、また死にたくはないと思っている。


それでもやはり人は確実にどこかの時点で死ななければならない。
僕等はそういう「不条理」な世界に生きている。

しかしカミュのポイントはその不条理に気づくことで落ち込む必要は無いと言う。
むしろ世界ね不条理性に気づくことは人がこの世界で幸福を感じるステップの大切な一歩だということ。
posted by OJ at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 実在主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月21日

不条理〜カミュ1

カミュをまずは読んでいる。
「異邦人」が有名だが、まずは、「シーシュポスの神話」を読みはじめた。

カミュを理解する上で、一番大切な思想はどうやら「不条理」という言葉らしい。


しかもカミュはその言葉を普通の意味以上に含みをもたせているとのこと。

不条理とは元来、意味をなさないとか、筋道が通らないという意味。
しかしカミュは、不条理を、世界の中での論理と個々人が持つ意識の間で起る矛盾だと定義しているように思う。

この中で特に、人間全体をみているのではなくて、個々人に焦点をあてているところが実在主義らしい。


posted by OJ at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 実在主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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