2009年10月11日

「文章」という弱さ

昨日、ひとつ映画を見た。
その映画に感激し、またそれと同時に、その映画は自分にとって、いくつかの問題を投げかけてきた。
そのひとつが「絵」と比べたときの、「文章の弱点」だった。もちろん文章の強みがあるのも確かだが、昨日は「絵と比べたときの文章の弱さ」を意識させられた。


「文章の弱点」と一言いっても、その問題はいくつもの要素をはらんでいる。

そのひとつが、「体験した出来事に対しての記述の難しさ」がある。
実は、その映画にいたく感動し、それを伝えようと、昨晩からその映画自体について、筆を進めている。しかし、自分が経験した「凄さ」をまだいまいち伝えきれず、その記事の作成は終わっていない。いくら自分がそれを伝えようとしても、それを「言葉」にできなければ、他人に伝わらない。それは、ひとつの弱さである。


もうひとつ。その映画は、ひとりの絵描きについてだった。言葉もわからないネパールへ単身で行き、そこで現地の人と交流を深めたというもんがたり。彼女はその場所で使われている言語ははじめわからなかったけれど、「絵」があった。それには、言葉は関係ない。映画のシーンの中でも、驚きがあったのは、彼女が道端で絵を描いていると、てきとうに人が集まってきたところ。これは、日本でも、他人が絵を書いていると、どんな絵を描いているか気になってくることと同じこと。そこで話をしながら、また人の輪がつながるというのは、とてもすばらしいと思う。
ある人がいくらすばらしい日本語の文書を道端で書いていたとして、そこが日本語圏の場所でなければ、その価値はわからない。そう、言葉には、言語圏という壁がある。


あとひとつ挙げるとするならば、文章というのは、理解するのに時間がかかる。前から順に呼んでいって、そして最後まで読みきって完了。絵というのは、すぐにビジュアルとして、人に飛び込んでくる。また、絵を見ていく上で、順序などない。ある人は真ん中から見るかもしれないし、ある人は左上から見ていくかもしれない。そういう柔軟性がある。


これから、自分が旅をしていく上で、言語の壁というのはきっとでてくる。たとえばインドにしたって、もちろん英語で話せる人はいるが、それがすべてではない。インドで使われている言葉は50以上ともいわれるくらいで、すべてを勉強するのは到底無理であろう。だからこそ、これからの生活において、言語の壁を壊せるような、そんな方法を探していかなければいけないと感じた。
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2009年10月08日

世界を知るとは、つらいことである

このごろの記事は、日常の出来事についてが多かったので、今回は趣向を変えて、最近読んだ本から学んだことについて。

”Travel as a Political Act" By Rick Steves


Travel as a Political Act

Travel as a Political Act

  • 作者: Rick Steves
  • 出版社/メーカー: Nation Books
  • 発売日: 2009/05/04
  • メディア: ペーパーバック





この本で、学んだ事というか、再確認したことは、今まで知らなかった世界を知ることは、つらいことでもあるんだ、ということだった。

ちなみに、この本について軽く触れておくと、著者はアメリカで有名な旅行レポーター。様々な旅番組や旅行ガイドブックを制作している。内容としては、彼が主にヨーロッパや中東を旅したときに経験した事について。しかし、ユニークなのは、彼が目指しているのは、豪華な旅ではなく、旅先でであったその土地の人やその風土を楽しもうとしているところ。その点において、とても共感できる。

さて今回、彼が本書でも書いている注目すべきポイントは、旅は楽しいことばかりではないよ、ということだった。

旅をすることで、自分の馴染んだ文化や土地とは離れ、今まで知らなかったことを知る。ただし、それが人を必ずしも、幸せにするとは限らない。いや、もしかしたら、不幸にしてしまうほうが大きいんじゃないかとも思っている。

勘違いして欲しくないのは、ここで旅を否定しているわけではないということだ。僕を知っている人は分かるだろうが、僕はよく旅に行く。行きたいから行く。でも、それが常に幸せをもたらすとは、限らない。まあだからといって、それでも旅に出たくなるのが、「旅」の魅力だと思っている。


話をもどすが、旅行、そして外の世界を知るということが必ずしも楽しいものだとは思っていない。旅をして、今までのコンフォートゾーンを出る事で、世界に起こっている嫌なことをみるはめにもなる。その例が世界の飢餓であったりする。そんなことを何も知らなければ、食べ物を好きなだけ食べて、おなかがいっぱいになれば捨てるということも簡単にできただろうに。


僕が今から、書こうとしていることは、実際に本の著者が経験した、世界で起こっている「嫌な事」である。嫌な気分をしたくなかったら、これから書くことは見ないほうがいい。実際、僕自身本を読んでいて、その内容を読んだ時に、世界にはこんなこともあるのかと、気分が暗くなった。それでも、実際にこの世界のある地域で起こっている真実を知りたければ、どうぞ。




それは、彼が他のアメリカ人何人かと南米のある地域を訪れたときのことだった。そこで、彼は、現地の人に話を聞き、じっさい彼らの生活がどんなものか、彼らが何を考えているかを聞く機会があった。

その地域では、だいたい月収が$100程。貧困の中で暮らしている。その貧困を改善できる見込みはまったくない。ただ、一つだけ。もし、家族の一人だけでも、命がけでアメリカ入国が出来たとしたら、その人が家族を救える唯一の救いとなる。実際、その地域からアメリカへ入国した人は、だいたいひと家族をやしなうことになる。

アメリカ側としては、違法移民を入れまいと、国境警備隊を常駐させ、銃の使用もやむなしというのが日常となっているが、その不法入国しようとするその一人一人には、養うべき10数人の家族がいる。彼らがアメリカに入ることで、その家族は今苦しんでいる貧困から救われる。そのために命を懸けてでも、という世界がある。

その中でも、一つの家族があった。
その家族には、22歳になる女の子がいる。彼女の望みは、アメリカへ行き、彼女の家族を救う事。
しかし、アメリカに不法入国するのを助ける組織は、彼女に$6000を要求しているという。まず、そもそもそのお金をどう作るのか、ということがある。普通に考えて、その家族の5年分の給料である。また、それを払ったとして、実際無事にアメリカに入国できるかは分からない。まさに命を懸けた賭けになる。続けて、彼女は言う。万事うまく行って、アメリカの国境近くになると、彼女はその業者に、支払いの一部としてきっとレイプされるだろう、と。それについて拒絶はきっとできないだろう。

これが、今自分たちが生きている世界の一部なのだ。
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2009年10月02日

「お金を払うとは、実は、他人のことを考えることの放棄なんじゃないか?」

今回は、本当にアイデアだけの話。自分でなにか結論がでたとか、そういうものじゃなく、ただなんとなく思いついたので書きとめておくことにする。

「お金を払うとは、実は、他人のことを考えることの放棄なんじゃないか?」

店に行って、欲しい商品を選び、その対価としてお金を払って商品を手に入れる。そんな当たり前の風景を見ながら考えたこと。

ずーと昔、まだお金というものが開発される前は、商品は物々交換によって取引されたわけだ。その時って、どうしても相手のことを考えなくてはいけない。

ある人が肉屋に行って、いのししの肉を手に入れようとしたとする。その人は、肉屋にそのいのししの肉と対等になるような物々交換の品を持って来なくてはいけないわけだ。すると、相手のことをどうしても考えなくてはいけない。

例えば、その肉屋が誰か病気の人がいた場合には、「薬」というのはいい取引物になりうる。だれか年頃の女の子がいたとしたら、髪飾りというのはきっと重宝されるだろう。反対に、歯の弱いおじいさんに、固いオカキというのは、いくらおいしくても必要のないものだろう。

そう考えていくと、誰か気になる女の子がいる男の子に、綺麗な宝石を譲る代わりに、普段よりちょっとオマケしてもらう、なんて光景があったのかもしれない。

このように、想像ではあるけど、きっと物々交換の時代には、他人が何を求めるのか、を想像する必要があったのだろう。


それから比べると、現在はとても簡単である。
自分は、肉を売っているあなたが、誰で、何を求めるのかは知らない。
ただ、自分はお金を持っていて、そのお金をあげるから、そのお金で、あなたはあなたの好きなように使いなさい。あとは、あなたに任せた。
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2009年09月09日

「死」がなんで怖いか?

「死」がなんで怖いかわかったよ

それは、慣れてないからなんよな。
もちろん、「死」を本当に体験してしまったら、もう終わりやろう。
でも、そうじゃなくても、「死」に近づくということすら、現代ではなかなか体験しない。

今は、医療によって、「死」を出来るだけ遠ざける。
遠くにあるからこそ、よく分からない。
よく分からないからこそ、そのために不安になり、怖いと思う。
よく分からないからこそ。

それでも、人にはいつか「死」が避けられない瞬間が来るわけで、そんなときには怖くなる。
今まで、できるだけ遠くにおいておこうとしたものが急に近づいてきて、準備もしてないまま近づいてくるからこそ、怖いわな。
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2009年08月30日

観光地化

A;今回は、今すぐに使える、非常に面白い発想法について教える。

これを使うだけで、今まで見ていた世界をいくらか変える事ができるほど、強力なもの。


それは、「人を観光地として見る」ということ。



人を観光地として、見てみる。この発想をただもつだけで、きっとあなたがいままで見てきた世界観がかわる。

例えとして、ある芸能人を観光地化してみる。まあ人気のアイドルを考えてみたとする。
そのアイドルには、数多くのファンがいるとする。
とすれば、彼女の観光地は、多くの人を惹きつけるような、超人気スポットということだろう。みんなが憧れ、とても綺麗な街。
とすれば、きっとパリのようなものだろうか。

他の例として、歴史があって、コアなファンが多くいるという点で、ポールマッカートニーは、エジプトのような観光地かもしれない。


こんな調子で、人を観光地化して見てみると、いままでとはちょっと違った姿で見えてくる。

そうすることで、人を惹きつけるにはどうしたかとかいうことも見えてくるわけよ。そのことについて詳しくは、また後日書こうと思っている。


今回は、その「人を観光地化して見る」ということを、覚えてくれればいい。
そして、一つ問題。
自分はどんな観光地になりたいか?


多くの有名スポットがある、超人気観光地になりたいのか?
多くの知識を抱える大図書館を持った街になりたいのか?
それほど大衆人気はないけれど、あるコアなファンが集まるような小さな観光地になるのか?


こんなことを考えるだけで、結構おもしろい人になったりもする。というのも、観光案内所が充実した街は、人が見やすいし。
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2009年08月26日

Aが見た今の世界

ー悩み、悩みはないのか?
自分たちが、話をきいてあげるから。


ー病気、病気はないのか?
自分たちが、治してあげるから。


ー苦しんでいる人はいないか?困っている人はいないか?何かしてほしいことはないのか?

自分たちにあなたを助けさせてくれ。そのために自分はいるのだから。そうする事で、自分は、自分の存在する価値が見えるのだから。

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2009年08月19日

ああ

B;ただ、自分もみんなと同じように、少し幸せになりたいだけなんだ。
それなのに、自分はなんでいつも、うまくいかないんだ?
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2009年08月14日

4、Bの悩み(Bの独り言)

B;Aは言います。強くなりなさい、と。孤独になりなさい、と。話としては分かります。しかし、それが果たして自分に可能なのでしょうか?

今までの話を聞いていた限り、今まで自分がぼんやりと思い浮かべてきた「幸せ」というのは、Aの話の「幸せ」とは、まったく相反するようです。確かに、強くなりたいとは思います。だからといって、自分の幸せを手放すようなことは、とてもつらい。

例え話で言えば、人を好きになりました。でも、彼女とともに、幸せな時間を過ごすことは、人を弱めていく事だとAは語ります。なので、そんな風に時間を使うわけではない、と。

でも、自分は彼女が好きです。人によれば、「お互いに高めあっていける関係になればいいよ」と言ってくれます。だから、恋をしていいんじゃないって。そんな事が聞きたいわけではありません。どうせAは、そんなの甘いっていうでしょうから。

そもそも、はたして、自分は何をもとめているのでしょうか?確固とした目的がまだ見当たらない自分にとっては、何かすべてがよくわからなくなります。何かよくわからないけど、つらいのです。この独り言を聞いている人がいるとして、きっとその人も私が何を言いたいのかよくわからないことでしょう。

もしかしたら、案外、人というのはこういうものなのかもしれません。何かを考えてはいても、それが何を考えているのか、よく分からない。そうやって、時間がすぎていくのかもしれません。


話を少し、戻すことにしましょう。自分は恋愛をするとほかの事が考えられなくなるからよくない、とさんざんAから言われてきました。そうして今、そのために悩んでいます。

悩んだ時に限って、Aは何も言いません。Aは、私が苦しんでいるのをほうっておきます。Aが言うには、人は悩み苦しむべきだそうです。そうして人は成長するのだ、と。

しかし、この今の瞬間、成長うんぬんのことについてなんて考えていられません。ただ、今自分に手に届きそうな幸せをつかみたいと、思います。ただ、いろいろな状況から、そう簡単にいかないこともあるわけで。

やはり、今自分が何で悩んでいるのかよくわかりません。もしかしたら、なにかAに言われるのを、怖がっているだけかもしれません。




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3、孤独になる覚悟

3、孤独になる覚悟があるか?

B;前にあなたは、他人に親切にするなといわれました。しかし、他人のことを思いやれなかったら、
孤独になってしまうのではないですか?

A;そうかもしれん。でも、それでいいんじゃない?

B;よくないです。孤独になりたくありません。

A;何を怖がっとるん?一つ聞きたい。あなたは何を望んでいるんやろう?みんなと「仲良く」過ごしていくのがいいのか?それとも「本当に」強いにんげんになりたいんやろうか?

B;うーん。まだよく分かりません。

A;もし本当に強い人間になりたいのなら、すすんで孤独になるべき、とニーチェは言った。
「孤独は、私たちを自分に対していっそうきびしくさせるとともに、人間に対する私たちの憧憬をいっそう募らせる。両方の点で、孤独は私たちの性格を改善してくれる。」そうして、孤独の中で、自分を育てていくからこそ、強い人間が生まれるだろう、と。

B;自分は強くなりたいとは思います。でも、そのニーチェの言う人生は、とてもつらいような気がします。

A;きっとそうやろう。やからこそ、人は選ばんとあかんのよ。本当に強くなりたいと思う覚悟があるのか。ちなみにニーチェは、彼個人ではなく、人類全体のことを想い、そして生きた。そうして強くなったからこそ、100年以上前に生きていたにもかかわらず、今でもこれだけ人の心をゆさぶるんやろう。


メッセージ;
あなたは、強くなるために、孤独になる覚悟がありますか?
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2009年08月11日

1、哲学とは、のぼり専用エスカレーターである。

A;これからあなたが強くなっていくために、「哲学」を教えていこうと思うんよ。


B;はい。しかし、よく「哲学」という言葉を聞くのですが、とても難しそうです。とても難しい言葉を使って、人生とか存在とかについて研究しているとか。実際、高校の倫理の時間に少し話を聞いていましたが、よく分からなかったし。それに、それほど生きるうえで重要とも思えないのですが。


A;まずは「哲学」の難しさについて。あなたが言うように、確かに哲学って難しいんよ。過去の哲学者の研究っていう分野においては。固い言葉を使って、なにか偉大なことを言っていそうな感じがするけど、でもよく分からない。ただし、俺が思うに、そういったイメージを作った事が、今までの哲学の中での最大の失敗やと思っとる。本来、「人生とは、生きるとは、世界とは、」について考えることは、人類全員にとって大切なことやったはずやねん。それが、いつのまにか、難しい専門用語によって、「哲学」がほんの一部の人のものになってしまったんやね。その状況を変えたいと思うからこそ、これから話す言葉は、できるだけわかりやすいものだけを使っていこうと思っとるよ。


B;それなら助かります。でも、それで哲学が分かると、どうなるんですか?生きるうえで、どう役に立つんですか?


A;どう役に立つか。確かに、哲学を勉強して、どうやって現代社会でにすぐに活かせるかは、非常に見にくくなっている。というのも、この資本主義の社会では、いかに資本を得るかということに重きが置かれすぎていて、「いかに生きるか。どうやったら本当の幸せになれるか。そもそも本当の幸せって何?」などといったことを考えなくてもいいように思えるからな。

けど、そんな社会においてなぜ哲学が必要なのかというと、「哲学を知る事で、人間が強くなれる」からなんよね。そして、それがこの会話の一番の目的であるんやけど。あえて言うなら、哲学を知る事で、人は高みに上る事ができる。そして、そこから見渡した世界は、今までの自分が見ていた世界とは違うものになるんよ。そうして、見る世界を広げていく事で、人間は強くなっていけるんよ。


B;へぇー、哲学を勉強する事で、だんだんステップがあがっていけるんですね。いろいろ見えるようになるために、早くその階段をあがってみたいなぁ。


A;ただし、一つ注意しておきたいことがあるんよ。哲学は、階段というよりも、のぼり専用エレベーターと思ったほうがいい。一度上ってしまうと、以前の場所に帰るのは、なかなか難しいんよ。そもそも哲学とは、自分が今までもっていた常識を崩そうとしてくるような現実を突きつけてくる事が多い。そして、一度その哲学を考えてしまうと、なかなか頭から離れない。映画『マトリックス』の一シーンであったように、「現実を知らなければ、幸せだっただろうに」ということにもなりかねない。その覚悟があれば、会話を続けていくが。


B;はい、お願いします。


A;分かった。じゃあ次の会話のトピックは、「人に親切にするな」について話すことにする。

ポイント;哲学を知るとは、のぼり専用エスカレーターに乗ることである。


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2009年08月09日

このブログの読み方と前書き 強い日本人をつくるために


<読み方>
どうすれば自分の意見を、人にわかりやすく伝えるか。そして影響を与えるか。
そのことを考えていて、結論として出したのは、自分の葛藤を、物語の中の会話文としてそのまま伝える事だった。


基本は、強い人間になればどうすればいいかを伝えに来たAと、その話を聞くBの会話からなっている。Bは、現代社会の多数派の意見を代表していると思っていい。その2人の会話をどう聞くかは、おまかせする。
Aだけの意見を聞いてもいいだろうし、Bのように、それについて食いついてもいいだろう。

自分としては、Aの意見に魅力を感じること。だからといって、そのままAの意見を受け入れられるかといえば、そうではない。自分の中で、今までの常識とのあいだで葛藤がある。それがそのままAとBの会話と思ってくれればいい。それを伝えたいと思う。

そして、もしよければ、コメント欄に意見を書いていただきたい。賛成・反対、もしくはよく分からない、でもなんでもいい。そうして、多くの人を巻き込んでいけたら、というのが、このブログの目的だから。

そして、いろいろな人がどんな意見を持っているかということが知りたい。もしかしたら、会話形式は、あまり気に入らないかもしれない。そうなれば、また変えればいい。一番重要なのは、どれだけメッセージを届けられるか、だろうから。



<前書き>


自分は、ブログを使って、なにができるだろうか。それを考えていた。

もちろん、ブログくらい、自分の好きなように書けばよいという意見もある。ただし、この自分のブログでは、他人に訴えたいことがあった。それは、「日本人に強くなってください」ということ。

4年の年月を、アメリカで過ごし、アメリカ人以外にも、多くの人を見た。そして、彼らを見てから自分の国を見返したときに、多くの問題を抱えているように見えた。その大きな原因として、「常識」、「それは、あたりまえ」という意識が非常に大きくなっているのだと思った。

鎖国解除後、日本は開かれたといっても、今までいろいろな障壁に日本は海外から守られてきた。
その一例が、日本語という、独自の言葉である。英語ができなくても、日本語がある、という状況は、日本独自の文化を作り、日本の国を閉鎖的にしてきた。日本語のために、海外の企業が入ってきにくかったということもあっただろう。そのため、日本は世界の中でも、ある特別な地位を得た。

確かに、日本は以前は魅力的な国だったように思う。勤勉という性格から、世界トップの技術を持ち、アジアでは一番の文明国であったから。しかし、その図式はもう崩れようとしている。徐々にアジアの国々は力をつけてきた。中国、シンガポールなどの台頭。巨大な新規市場がみこめることもあり、アメリカは特に、中国との交流に力を入れ始めたのは、明らかである。

そして今日本は、世界からおいていかれつつある。閉鎖市場であったぶん、グローバルスタンダードについていけていない。もしくは、付いていく気がなかったとも言うべきか。いくらトップレベルの技術があるといっても、である。例えば、携帯電話。日本の携帯電話は技術では世界一だと思う。それは誇っていい。しかし、世界での普及率を見てみると、まったくダメなのだ。日本とグローバルスタンダードの通信方式が違うため、日本の携帯は、世界では使えない。そのためNOKIAという、日本ではそれほどでない携帯が世界中で利用されているのが現状である。

これからを予測すると、ますます、日本は世界からおいていかれるのだろう。実力ではなく、コネや年の功に重きを置かれる社会。それが間違っているとはいえないし、それが閉じられた過去の日本ではうまくやってきた。しかし、現在のグローバリゼーションの時代では通用しない。まったく考え方も背景も違う人たちがともに働き、競争する社会。そんななかにおいて、「言葉に出して言わなくても、相手が自分の気持ちをさっしてくれるだろう」、「日本は、ほかのアジアの国より優れている」、「きっと誰かが助けてくれる」とかいう考えはもうまったく通用しない。それは、この4年間の生活で充分実感した。今まで世界は、英語を話せない日本とどう付き合うか、ということをかんがえてきたのかもしれない。しかし、今となっては、わざわざ言語が違う日本と付き合わなくても、英語で通じる他の国と取引すればよい、という風潮にないだろうか。

さて、このグローバリゼーションの世界の中、小さな島国の住人である日本人は、どうすればいいのか。それは、強くなることである。過去の栄光にすがって、くだらなく小さな自尊心とともに、日本が廃れていくのを見るのではない。
物事をきちんと考え、それを伝えることができるそんな強い人間になることである。
そのために、このブログはある。

その目的のために、自分が何をできるかと考えた。はっきりいって、自分に実務的な実力はまったくない。しかし、哲学の素養と興味ならば、ある。
なので、これから、このブログを通して、哲学的なメッセージを伝えていく。もちろん、自分の意見に常に賛成しろというわけではない。逆に、常に反対するくらいであってもいいのだと思っている。それでもいいから、このブログでは、哲学的なメッセージを伝え、考える機会を提供できればというのが目的だ。

日本には、宗教がないから弱いという言葉をきくことも、何度かあった。しかし、自分の結論としては、別に強くなるために宗教は必要ない。ただ、多くの人が宗教を通して考えるであろう生きるということ自体の問題について、考えるようになればいいのだ。

そうして、強くなってほしい。その願いの元、このブログを書き続けたいと思うし、その想いができるだけ多くの人に届けばいいと思っている。
 



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2009年08月05日

ケチャップについて。(補足)

このトピックに関しては、
普段の自分の文章に比べると、実体験として納得できるという意味で、理解しやすいといってくれる人が多かった。

そんななか、友だちのブログを見ていて、ちょうど補足説明としてぴったりな事例が見つかり、転記許可が得れたので、引用しておく。


Aさん(20代、女性)の「選択肢と幸せ」の実体験;選択肢が多いとは、幸せになりやすいとは限らない。


>桜餅の餅が、もちってゆーかゴムみたいだった。

>ものすごーく悩んで買ったのに…!!!

>こんなことなら紅茶のロールケーキにしとけばよかった!!!!
>おいしくない桜餅を二個も食べる羽目に。
>いくら半額とはいえ許せん。ふんまにーーーーーー。
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2009年08月04日

ケチャップについて。(選択肢と幸せの関係性)−2

この本を読んだとき、とても興味深いと思った。そして、この本はメインでビジネスに関して述べているが、この考え方自体は、哲学・世界の問題に応用できるなと思った。

まず始めに、おもしろいなと思ったのは、この選択肢の問題に関して、三段論法が成り立たないことだった。三段論法とは、ある前提から、結論を導き出すとても基本的な公式のようなもの。ちなみにウィキペディアの例を見てみると、

大前提:すべての人間は死すべきものである。
小前提:ソクラテスは人間である。
結論: ゆえにソクラテスは死すべきものである。

と、ある。これは非常にシンプルなぶん、幅広い応用が効く。
今回の問題に当てはめてみると、

大前提:自由な人は幸せである
小前提:選択肢は多いほど、自由が大きいということである

この二つの前提は、きっと納得してもらえると思う。
そして、この前提から導き出されるのが、

結論:選択肢が多いほど、人は幸せになれる

ということである。しかし、前述したように、あまりにも多い選択肢は、人を不幸にすることがある。つまり、この選択肢の問題に関しては、単純に三段論法での結論は出せないということだ。


この選択肢の話は、ケチャップ選びだけにはとどまらず、人生の大きな選択にもあてはまる。

その例えとして、一つの質問がある。

2つの生き方

アメリカに生まれ、商社に勤めて、仕事で頻繁に海外をまわるという生き方。
インドの小さな村に生まれ、先祖代々ついできた靴屋で働くという生き方。

どちらの生き方が幸せなのだろう?

この問題については、最近何人かと話をしたことがあるのだが、まだしっくりとくる答を得るに至っていない。しかし、話の内容としては、こうである。

もし、商社マンとして生きたとしたら。
海外を飛び回る仕事をしていきていくということ。
それは、多くの人があこがれている生き方の一つのようにも思える。そもそも、そんなことができるのは、まず実力があるということだろう。自分は世界を動かす大切な役割をになっているという、意識をもっても不思議ではないし、それがいけないことだとも思わない。他の人に比べ、信用も、影響力もあると思う。
また、世界を飛び回るなかで、いろんなものを見ることだろう。自分が生まれた一つの国だけに留まらず、世界を見るということが日常になるのだろう。そんな生き方ができれば、とても楽しいと思う。


インドに生きた場合。
小さい頃から、祖父や父親の靴作りを見てきたことだろう。そしてカーストという制度によって、自分も彼らのように靴屋として、自分の村で働いていくということを教えられる。世界はそういうふうにできている。
大きくなり、言われたとおりに靴屋となる。一生懸命働き、家族をやしなう。やがて子どもが生まれる。大金もちになるわけではないが、その慣れ親しんだ村で、家族が生きていくだけの収入はある。楽しみは、家族と過ごす時間、そしていつか訪れる、先祖代々続いたこの靴屋を自分の子ども達が引き継いでくれる日のことを想う事。




どちらの人生を選びたいか、という質問に対して、きっと多くの人が始めの人生を選ぶ事だろう。世界を飛び回るような華やかな人生。それに比べ、もう一方の人生は、将来がもう生まれた瞬間に決められている。

しかし、この例には続きがある。

幸せな日々。金銭的にも困る事はないだろう。しかし、いつの日か彼はふと立ち止まって考えるかもしれない。自分には、他の生き方があったのではないか、と。
もし、自分が商社マンではなく、小さい頃にあこがれていた警察官になっていれば、どうなっていただろうか。もしかしたら、数多くの悪人をつかまえるようなエリートになっていたかもしれない、と。

結局、この質問のポイントとしては、選択肢がある分、そして世界を多く見る分、常に違う人生を送る自分の姿が想像できる点にある。たしかにアメリカで生まれれば、何にでもなれるという自由度と選択肢を持つことができる。しかし、そのために、自分が選んだ人生に対して、他人を責める事ができない。もし今が幸せだとしても、自分のやり方によっては、もっと幸せになりえたかもしれないのだ。
まさにスーパーの中で、ケチャップの前に立ち、悩んでいる。どのケチャップがいいのだろうか。
そしてあるケチャップを買って家に帰り、そのケチャップを食べながらあることを考える。このケチャップは確かにおいしい。しかし、もしかしたら隣のケッチャップのほうがもっとおいしかったのかな、と。ケチャップならまた買いに行けばいい。けれど、人生が選べるのは、ただ一度きり。


もう一方、インドでの話。
彼には選択肢がそもそもない。あの人生を選んだら、どうなったのだろう?という悩みがでてこない。
インドの小さい村で育ったので、他の世界がどういったものかはしらない。きっとその村での出来事が、彼の世界なのだろう。もしかしたら靴屋でいるのが嫌かもしれないが、しょうがない。世界とはそういうものなのだ。いや、それ以上にある職業が嫌、ということを考えないのかもしれない。何も迷う事はない。ガソリンスタンドにあったケチャップはただ一つだけだ。
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本当の自由についての補足

正確な言葉は忘れてしまったが、英語の表現として、「偉大な思想家のアイデアは、どこか似ている」というものがある。
以前書いた「本当の自由について」で紹介したボーヴォワールは、20世紀のフランスの哲学者。
http://fuufuufuu.seesaa.net/article/124730646.html


最近、『竜馬がゆく』を見て、たまたま彼女の思想に非常に近い文章を見つけたので、補足として引用しておく。場面は、竜馬が同士を説き伏せるところ。

「志を持って天下に働きかけようとするほどの者は、自分の死骸が溝っぷちに捨てられている情景をつねに覚悟せよ、勇気ある者は自分の首が無くなっている情景をつねに忘れるな、ということです。それでなければ、男子の自由は得られん。」(新潮文庫、第三巻、p368)

文明の発展とともに、安全にはなったのだろうけれど、「自由に生きる」ということがいかにも難しくなったことを感じる。
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2009年08月02日

ケチャップについて。(選択肢と幸せの関係性)−1


1.
アメリカに来て、フライドポテトの食べ方が変わった。日本にいるときはそうではなかったのに、今ではフライドポテトをケチャップをつけて食べるようになった。それがないと、物足りない。
ある時、ケッチャップが切れてしまい、買いに行く事にした。
ところで最近は、ケチャップといってもたくさんの種類があるらしい。
なるほど近くのスーパーに行くと、何種類ものケチャップが棚に並べられている。
こんなに種類があってもどれがいいのか分からないので、とりあえず一番安いものを買うことにした。
そして家に帰って、そのケチャップを試してみると、どうもおいしくない。
こんなことなら、余分にお金を出して、もっと高級なケチャップを買うべきだった。
失敗した。


2.
ある日キャンプに行った。
山の中でのバーベキュー。今日の昼ごはんのメニューはホットドック。
いつもの日常とは違った環境の中での食事が楽しみだ。
しかし、昼ごはん時になって、食事を準備し始めた時に気づいたのだが、ホットドッグにつけるケチャップを持って来るのをわすれてしまった。しかし、ケチャップなしのホットドックは、想像だけで味気ない。
山の中のキャンプ場ということもあり、街からは離れている。
しかし幸い、近くにキャンプ用品を少し扱っているガソリンスタンドがあった。
急いでそこに行き、ケチャップを買う。
店が小さいこともあり、一種類しかケチャップが無かったので、もうそれを買うしかなかった。
そしてキャンプ場へ戻り、昼ごはんを食べる。
さっそく買ったケチャップをホットドックにかけて食べた。あまりおいしくない。
あのガソリンスタンド、もうちょっとおいしいケチャップを店においたらいいのに。



たぶん、多くの人がもう気づいているだろうが、今回の文章は「選択肢」についてである。
そもそも、このアイデアは、Barry Schwartzが書いたビジネス洋書The Paradox of Choice: Why More Is Less を読んだ事による。
この本の一番の主張は、「選択肢があればあるほど人は幸せになれる、とは間違いである」ということである。もちろん、人はまったく選択肢が無い状況よりも、いくつかの選択肢がある状況を望む事は確かだ。しかし、もし選択肢があまりにもありすぎると、人は不幸になってしまうという。その根拠の一つとして、あげていたのが上のケチャップの例に見られるような心理学的な要素である。

この著者によると、もし選択肢が多い場合に、人がその選択を誤ってしまうと、それは自分の責任だと考えるらしい。1番の例が示しているように、いっぱいある選択肢で間違ったケチャップを選んでしまったのは、自分の失敗だった、と。そういった意味で、人は自己嫌悪からくる不幸におちいる可能性があるようだ。

その対極にあるのが、2番の例である。この場合、ケチャップはガソリンスタンドに一つしかなく、選びようがない。そして、そのケチャップがおいしくない。その場合、ケチャップがおいしくなかったのは、自分が間違った選択をしたのではなくて、そんなケチャップしか置いていないガソリンスタンドが悪いのだと考える。つまりは、選択肢を提供しなかった他人の責任だと考えるらしい。このとき、いくら憤慨をしようと、自己嫌悪に陥る要素は無い。

(続く)
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2009年08月01日

罪は人を救いうるか?(2/2)


なかなか難しい問題なので、いくつか例を使って考えてみることにする。
例1、確実に儲かる事業を始めるに当たって、資金の工面がたたず、お金を盗もうと考えた場合

お金を他人から盗みたいと考えることは、悪いことであり、罪である。しかし、行動に移さず、頭の中で考えている期間、それはその人の脳の中だけでの罪である。ある人は、そんなことは考えてはいけないと葛藤する。しかし、考えれば考えるほど、その「罪」は頭の中を巡り、誘惑してくる。そうやって、「罪」は頭の中で存在し続ける。
しかし、ある日、人は思い立って盗みを働いたとする。そのまさに盗みを働いている瞬間は、彼は罪を犯している。しかし、その行動を終えた直後、彼の頭の中からは、「人のお金を盗みたい」という罪の意識は消えている。人によっては、その行動の成功を「快楽」という形で喜ぶかもしれないし、「悔恨」するかもしれない。
しかし、どちらにしても、もう彼の頭の中からは、「罪」が消えている。
そのことをオスカーは「行動によって人は浄化される」と表したのではないだろうか?

もう一つ、もうすこし激しい例を見てみる。
例2、AはBが憎くてしょうがない。Bをみているだけで残酷なことを考えずにはいられない場合

Aはふだんは、とても優しい人物だとする。しかし、同僚であるBに対してだけは別。どうしても彼のことを受け入れられない。AはBと毎日顔をあわせなければならず、その度にAの頭の中にはBに対する嫌悪感、またそれ以上に、罪を犯さずにはいられないほどの意識を感じてしまう。Aは反省する。それではいけない、と。しかし、Bのことを考えるたびに、Aの頭の中で罪は増大する。
そこで、Aはついに行動に出た。Aは不正工作をBにしかけ、BはAのしわざだとはまったく気づかないまま、Bは会社から追い出された。この不正をした瞬間は、Aは罪を犯したかもしれない。しかし、その後、Bはもういなくなって、Aはもう何も他人に対して罪を犯したいとは思わなくなったとしたら、「Aの行動は、Aを浄化した」といえるのではないだろうか。

もちろん、この文章では、被害者に関しては何も述べていない。しかし、この文章で問いかけたかったのは、本当に行動によって人は浄化されるのか、ということであった。そしてこの問いはさらに深くまで掘り下げることができる。
もし、後に完璧に補償ができるのであれば、「罪の行動を起こすべきではないか?」ということである。罪を犯すことによって、頭の中での罪に苦しめられていた一人の人物が助けられる(浄化される)。そして、その犯した罪の被害者に完璧な補償ができたとしたら、罪を犯すことで、人間が救われるという構図ができあがるのではないだろうか?
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本当の自由について

ボーヴォワール著、『人間について』から引用
「肝要なのは負けないことです。ところが、決して勝ちっこありません。われわれの行為を引き受けなければならないのは、不安定と危険の中においてです。そして、まさしくここにこそ、自由性の本質はあるのです。」(p154、新潮文庫)

これによるとつまり、自由とは、不安定と危険の中に、自分を投げることではないだろうか。予測ができるということ、言い換えれば、安定であったり安心であるということは、本来の自由ではない。それは、どこかで際限がある、限られた空間での自由を意味している。

現代の社会で何がおこっているか。それは、自由を代金として、安定・安心を買っているのである。たとえば、会社で働くとは、自由な時間を会社に捧げて、その分で生活が安定できるように給料をもらう。
この文章を見て、何を考えるかは、各人によるのだが、自分が思ったのは、「自由とは、怖いものだ」ということだった。限られた自由ならいい。しかし、本当の自由を手に入れることとは、何も考えず諸手をあげて喜べるようなものではないらしい。

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罪は人を救いうるか?(1/2)

オスカーワイルドという人が書いた『ドリアングレイの肖像』という本がある。自分はこの本になぜか惹かれた。何度も繰り返し読んだ。自分にしては珍しいことだ。
その理由として考えられるのは、この本の文章の怪しい魅力による。どこか異常だと感じながらも、その内容を完璧には否定できない、そんな魅力がある。
プロットとしては、美少年ドリアンに魅了された画家バジルが彼の肖像画を書いた。その肖像画を見て、ドリアンはその美しさが肖像画に書かれているように永遠に続けば、と願う。そして純粋だったドリアンはバジルの友人で快楽主義者のヘンリー卿に出会い、その思想に感化されていく。ヘンリー卿の影響下、次第に快楽へと堕落していくのだが、ドリアン本人は若さと美貌を失わず、その肖像画だけが醜く変貌していく、という内容。
いかにも怪しい。しかし、その怪しさの中に、いくつもの人間の真理が書かれているように思った。
前述したように、今から引用する文章や解釈は、どこかおかしい。しかし、ただ反対するだけでなく、立ち止まって考えさせられるだけの力がある。

「しかし現代では、もっとも勇敢な男でさえ、自己をおそれている。。。われわれは自己を拒絶するから罰せられるのだ。われわれが衝動を押し殺そうとすると、それはみな心に忍びこみ、我々を毒する。肉体はひとたびその罪を犯してしまえば、もうその罪とは縁をきることができる。行動によって人は浄化されるからだ。あとに残るのは、快楽の記憶と悔恨という贅沢だけだ。誘惑を退けるには、それに身を任せるしかない。。。世界中の罪があるのは脳の中だけで、決して他の場所にはない。」

これはつまり、自分なりに解釈してみると、いけないことを頭の中で考えるからこそ、それが罪の意識となって表れるということではないだろうか。その悪いことを考えている間中、罪は現在進行形であって、そしてそれは常にその行動をおこさせようと誘惑してくる。しかし、もし、行動を起こしたとして、もしそれが頭の中からまったく消えてしまうようなことがあったとしたら、罪は過去のものとなり、その人は罪の意識から救われる。「行動によって、人は浄化された」とは考えられないだろうか。

もちろん、ある悪いことを起こしてしまったとして、それが中毒になる場合は、この考えには当てはまらない。しかし、もし一度きりの罪で、その人からその悪い考えが抜け出ていくとしたら、どうなのか?
また、引用文が示しているように、もし悪いことをしてしまったら、その行動事態は罪であるが、その事を振り返ってみるときに発生するのは、「悔恨」であって、「罪」ではないとしたら。
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2009年07月31日

これから自分が哲学をする当面の目標として

もうこれ以上、人間を不幸にしないために、子孫を残すべきではないということは以前に書いた。(結論:もうこれ以上不幸を作らないために(人生の幸せ・不幸せについて考える6/6)

今でも、人間は最期にして不幸だというアイデアは、間違っていないと思っている。

しかし、最近発見した公理の一つに、「人間は暗いものには、ついていかない」ということがある。

これは司馬遼太郎の『竜馬が行く』にあったのだが、結局多くの人間は、自分たちにとって、「明るいもの、幸せな未来がありそうなもの」に向かって歩いていくようなのだ。
その本の中では、例としてあがっていたのは、大衆は、自分たちの反対の理念を持った者たちを殺すことで尊皇攘夷を推しすすめようとした維新紳士達を、恐れはしても、賛同はしなかったようなのだ。
そうではなくて、竜馬の理念であったような、将来士農工商のような垣根を撤廃して、自由な社会を作りたいといったような、明るい希望にこそ人はついてくるということだった。

なので、もし自分の「人間は不幸」という理論が正しいかったとしても、それで人が子孫を残すのをやめだすかといえば、それは無いだろう。人がついてくるには、あまりに「暗すぎる」だろうから。

なので、これから当面の目的は、どうすれば人が幸せになれる社会をつくれるか、ということを考えることにする。今のままでは、人は不幸になってしまう。そしてもし、そんな社会構造を考えつけたとするならば、ついてきてくれる人が出てきてくれるかもしれない。
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2009年07月30日

好きな言葉は? 「ぜい肉」(2/2)

さて、ぜい肉の話に戻る。
筋肉と比べてみると、ぜい肉はそれほど役割がない。生命の維持に必要かといわれれば、そこまでいらないようにも思える。しかし、忘れてはいけないのは、「ぜい肉」とは脂肪であり、脂肪とは筋肉を動かすエネルギーになりうるということだ。


ここで、現代の人間における「ぜい肉」とは何なのか?

結論を言えば、自分の答えは、「ぜい肉」とは、その人にある余分、もしくはクセなのだと思っている。

例えば、株取引を仕事としている人がいたとする。もちろん彼はプロなわけで、株について詳しい。生計を立てているという点で、株の知識が彼のなかの筋肉ともいえる。しかし、その人が株に詳しいということを知っても、それほど興味深くはない。株に詳しい人など、それこそ無数にいる。このままでは、彼は一つの人体模型だ。他との区別がつかない。

しかしここで、サーフィンの趣味、恋愛、実は小説家志望だった、といったような「ぜい肉」がついていく。そうしてできた人間像を見るのは非常に楽しい。
ただの想像ではあるが、日本ではいったん社会にでると、他人と仕事・会社の話だけをする事が多いような気がしている。それではもったいない。

もう一つ。ぜい肉とはクセであるとも書いた。
ほとんどの人には、意識しているにしろ、してないにしろ、その人特有のクセというものがある。それらは可笑しかったり、目障りだったり。。。でも、その人にはそれがあるからこそ、「その人」なのだろう。もしまったく、クセというものがなくなったりしたら、今よりも世界は面白くなくなるように思う。


最後に。
最近、「隠れ肥満」や「メタボ」という言葉を聞く。見えにくい場所にあるぜい肉のことだろう。
人における「ぜい肉」とも同じように面白いもので、見える場所にあるものもあれば、そうでないものもある。しかし、始めに紹介した「ぜい肉こそ、その人だ」という言葉のとおり、そんな隠れた「ぜい肉」をみつけるのも案外面白いのではないか。不必要に見えるけど、その人を成しているもの。そんな考えを持って物事をみてみるのも面白い。


posted by OJ at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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