2008年02月10日

インーヨウ

やっぱ、宗教が人に与えて来た影響ってとてつもないと思う。
個人が信じるとか、信じないかとかは別にして、何かしら国とか文化にいちど浸透し始めれば、そのまま多くの人が何らかの影響を受けていくんだと思う。


大きく分けて、やはり西洋はキリスト教、東洋は仏教の影響が大きいのだと思っている。
そしてそれが西洋人と東洋人のとても大きな違いを作っている。


両方の宗教に対する善悪に対する意見の違いをみてみると面白い。


西洋、キリスト教の目指すところは「完璧な善」かな。
善が純度100%ともいえる。
だから悪いといわれる行為はすべて「罪」とみなされるし、それは許されなければいけないものなのかもしれない。

キリストを見てもまったく当てはまると思う。
俺はバイブルの事はほとんど知らないけど、彼が何か悪い事をしたという記録はあっただろうか?
結局最後は、キリストは「人の罪」を償うために死んだ。
それほど、罪は悪いものなのだろう。
言い換えれば、罪の無い、悪いところの無いきれいなものが西洋における理想のような気がする。


それに比べると、東洋、仏教の考えってかなり違うなぁと思う。
陰陽の考え。そして今はそれにとても興味がある。
陰陽の教えでは、たしか良いこと、悪いこと両方を含みつつ、その中でバランスをとっていきましょうって考えやね。

いいところだけじゃなく、自分の悪いところも認めつつ、その中でそれにどう対応して生きるかって考えは、とても自然な気がする。
人間である以上、生きている限りいろいろな悪い事や、失敗をするわけで、それを憎むべき存在として否定してかかるのではなく、「それとともに生きていきましょう」って、人として一番目指していくべき方向じゃないかと。

キリスト教の話を聞いたときの不自然さというものは
案外ここから来ているのかもしれない。

仏教の教祖である釈迦だって、完璧な善ではなかったわけだし。
彼はどこかの一族の王子で、さんざん遊びほうけた後、いつかそれを失うのが怖い、年老いていくのが嫌だ、という苦悩から悟りの道をひらいていくきっかけになったわけで。


まあ取りあえず今回は、陰陽の考えが面白そうだということが書きたかった。自分の中にある悪い事は憎むべき、排除すべきだとは思わない。
問題は、それとどう向き合い、共存していくかってことやね。




posted by OJ at 16:58| Comment(4) | TrackBack(0) | 生涯の仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
もう一つ東西の宗教観の違いは自然観の違いから来ているとも言える

西洋は自然を征服する対象、つまり自分たちの「外」とみなした
それだけにあやふやな自然を理解するために自分たちの哲学・スタンスをはっきりさせるひつようがあった
ちょうど数式に2つ以上の変数があるとき一つははとりあえず何か一つの値に定めて考えるように
そのために確固とした価値つまりキリストと言う存在は都合が良かったんだね
In other words, 西洋人の物の考え方にmuchしてたんだね

これに対して東洋は古来よりとにかく水害が多かった。
台風・洪水・地すべり、なんでもござれだもんねw

東洋人はこの圧倒的な自然を征服しようとではなく自分たちの生活にうまく取り入れる道を選んだ
例えば水をうまく利用した水田や風車 etc etc

これにより自然に適応し自然から学ぶというスタンスが形成された
言い換えれば変数をそのままにして体験から理解するという様式かな?

だから東洋には西洋と違って一つの価値観(キリスト)があり自分たちの外にあるのではなく多数の神様がいて、しかもそれがあちこちに内在してる。自然の色々な場所だとか、生活の一コマ一コマだとか

面白いのは「理解」という言葉、これは言い換えると分別をつけると言うことだけど
理解するということにはまず分けるという動作が伴うということ

西洋はキリストを軸に外の世界をドンドン区切っていった。その結果生活そのものを変革する力「科学」が発達した

東洋は変数がそれぞれ勝手に動きまわってしまうからその関係性に注目するようになった
つまり理屈は解らないがコントロールはできるという体系、風水や占い陰陽道、漢方、気功など
生活を変える力は無いが、生活を良くしていこうという智慧

西洋と東洋の宗教の構造がいかに違うかはやはり生活からもきているんだろう




Posted by at 2008年02月11日 03:50
"自分の中にある悪い事は憎むべき、排除すべきだとは思わない。" と書いてありましたが、聖書には、罪は憎むべきであり排除すべきであるとは書いていません。自分の犯した罪は神様に許しをもらうことで取り払われます。神様は私たちが何度も何度も自分の犯した罪について憎むことは望んでいません。罪を排除しなさいと言っているのでなく罪から学びなさいと言います。
完璧な人間なんて一人もいません。
だから自分の罪を認めて償って、そこから学びなさいと聖書はいいます。
自分の罪を改め繰り返さないことは難しいことです。でもそれをしないと平和な世界は作れません。
誤解をしてほしくなかったので書き込みをしました。


Posted by zc at 2008年02月11日 14:17
ZCさん、
コメントありがとうございます。

キリスト教については、何かを引用したのではなく、いままでの経験からくる印象で書いたため、聖書に書かれてある内容とのギャップがあったのだと思います。

自分はもっと勉強が必要です。
なのでもしよろしければ、「罪から学びなさい」という文章が、どこに書かれてあるかを教えてくだされば、幸いです。
Posted by OJ at 2008年02月12日 00:02
聖書に羊使いの話があります。

Psalm 23
A psalm of David.
1 The LORD is my shepherd, I shall not be in want.

2 He makes me lie down in green pastures,
he leads me beside quiet waters,

3 he restores my soul.
He guides me in paths of          righteousness for his name's sake.

4 Even though I walk
through the valley of the shadow of death,
I will fear no evil,
for you are with me;
your rod and your staff,
they comfort me.

5 You prepare a table before me
in the presence of my enemies.
You anoint my head with oil;
my cup overflows.

6 Surely goodness and love will follow me
all the days of my life,
and I will dwell in the house of the     LORD forever.

主はわたしたちの羊使い、そして私たちは主の羊だと聖書は言います。羊使いどこへ行くときも自分の羊達を連れて行きます。羊は羊使いがいつもそばにいて行くべき道を示してくれるので、安心して草原の原で休むことができます。でも羊は愚かなので、群れから逸れて本来行くべき場所ではないところに行くことがあります。そんな時羊飼いは逸れた羊のところに行って羊の足を折ります。足を折られた羊はもう歩くことはできません。でも羊使いはそのまま立ち去りはしません。その羊を背中に背負って群れに戻るのです。それからその羊の足が完全に治るまで、羊使いはどんなに重くても毎日羊を背負って歩きます。草原に行くときも、家に帰るときも。羊は足を折られた痛みから群れを逸れてはいけないことを学ぶのです。
主は私たちに罪を排除しなさいなどといいません。罪を繰り返すことをやめなさいと言うのです。完璧な人間などいません。罪を犯しその罪に気付いて許しを求めた時、主は必ず私たちを正しい道へ導いてくださると聖書は言います。


わたしは仏教徒を否定しません。全ての宗教には正しい道があると信じています。
大切なのは正しく理解することだと思います。



Posted by zc at 2008年02月13日 10:20
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