2007年04月19日

ある人のある一日

郵便局の通信部
電報通信 タイプを打って電信
各郵便局から電報を送って、本局へそれを各郵便局へ

朝に郵便局へ行って、夜に家に帰られるかが分からない
歩いて25分
途中で、飛行機がよく通る
商店街を通っているときに、敵機の音が聞こえると、商店街の軒下へ隠れる、
そんなんしよったらあかんねんけどな、そんなんしらへん。ただ、みんなしよるから。

8月6日
あのときだけは、なんかしらんが気が進まん。仕事にいきとうなくてなー。
いつもは朝8時出勤。
でもその日は気が進まんから、家を出たり入ったり。
おばあさんに怒られた。
「K,何をしよるんや。そんなに出たり入ったり。」
「気が進まんのんや」
「そんな勝手な事、言っとたらあかん。」
それですねて、「もう今日はいかへん」ってゆって、家に入って、
畳の上に寝そべって、その瞬間に落ちたんや。

そやから命拾いしたと言えばそうやな。あれがそとにでとってみいな。
原爆の放射線かなんかにあたって。。。
そやから姉さんなんかは、軍隊の兵隊さんが着る服をこしらえとったんよ。
その日は、その前の日やすんで、友達の家に言って、原爆の日に家に帰る途中にやられたんよ。

やから、原爆が落ちた瞬間、「危ない」と思って(しゃがんで)伏せたんやって。
行った時は、前はきれいなそのまんま。ただ後ろが3分の2は焼けとるんよ。
皮膚がただれて、皮がたれさがっとるんよ。

家の中でも、物落ちよったりしてからやな。怪我ゆうか、ケロイドにになった人もおったし。
あたしはたまたまや。
奥の部屋で寝そべったもんやから、その上に屋根やかわらが落ちてきて、その下敷きにはなったけどもな。
奇跡的に助かったんや。

でも玄関はそのままあったで。
他は古い家やからつぶれたけど、玄関なんかはしっかりしとったんやなぁ。

おばあちゃんが台所におって、なんか光ったと思ったから台所をあがって、四畳半の部屋に上がろうとした瞬間にやられたんやな。

原爆が落ちた瞬間に私はびっくりして、「おかあちゃん、おかあちゃーん」って呼ぶねんけど返事が無い。
「こりゃ、えらいこっちゃ」と思って、うえに土や瓦がのっとるから、なんとかかんとかもがいてそこから出て、「おかあちゃん」って呼んだ。
まわりをみわたしたら、なんかもそもそ動きがある。板切れが。
それで、それをのけてやったら、おばあちゃんがおった。
ただ、頭うっとるから、ぼーっとしとって、何分で気づいたか分らへん。

原爆が落ちて何分経ったか。ぜんぜんわからへん。そりゃ、時計なんかはみな壊れてしもとるからな。

さて、そこから逃げなあかん。
うちは長屋に住んどって、そこから石段をあがって小高い土手をめざしたんよ。
おばあちゃんをな、連れて。
下には瓦は落ちとるは、家が潰れたんやから板切れは落ちとるはで。
その上をもう四苦八苦して、やっとちょっと高い土手までおばあちゃんつれて上がったんよ。
裸足よ。履物なんか。そんなん履物どころか。

土手はかなり広いわな。そこえ上がって。
そうなると次は川筋へ。広島は川が多いからな。
川筋に沿ってかなり広い道があるんよな。やから次はそこへおばあちゃんをつれてあがって。

もうおばあさんはぼーっとしてもて。放心状態。もうびっくりしてもたから。
「こっちや。かあさん、こっちや」ってひっぱって。
そこからかなり歩いて。そしたらそこに鶴見橋ってゆう橋がかかってるんやな。
その橋をわたったら、キジ山ってゆう小高い昔から有名な山があるんや。
そこへ逃げたら危のうないやろうと思ってやな、そんでおばあさんひっぱって。
まだおばあさんはポーってしたまんまやからな、そこまで引っ張ってやな。

ほんでやっとキジ山へ逃げたら、おばあさんが気がついてやな。
「K,どないしたんや。こんなところへ来て。」てゆうからな。
こうこうでってせつめいしたら、
「なにか落ちてきてな。ああ、これは普通ではない。空襲じゃと思うた。」っておばあさん言いよったわ。
「空襲じゃー。」って思うて。「敵機がきたんじゃなー。」っていうところまでは覚えとるって。


そんで私らは、原爆から逃げて、さあどこに行きましょうかって。だって行くとこないもんな。
そんなとき、親戚のことを思い出してな。

親戚のおっちゃんが鉄道の官舎に勤めとったんよ。

そのおっちゃんが、戦時中でものが不自由なもんやからお米を買いに朝早くから田舎まで買出しに行っとったんよ。
そうゆうわけで、そのおっちゃんは助かったんやけどな。

そやからひとに「鉄道の官舎はどこですか」って聞きもってな。やっとこさにそこにたどり着いてな。
そしたらそこのおばさんが、「まあ、あんたらよう生きとったなー。」ってびっくりしとってなぁ。
その親戚は疎開しとったから助かったんやけど、私らはまだ市街におったからな。

そこで2,3日食べさせてもらって。


そこの隣が空き家であいとったんよ。やからそこに許可なしで入らしてもろて。
それから後に手続きしたんやけどな。

それでも、困ったよー。米ひとつあるわけじゃない。
あるんは水だけよ。
そやからおっちゃんが田舎に米分けてもらいに行ってな。
でも、そんな時分はお金で、ってゆうのが出来んのよ。やから物々交換。
何かを持っていってな、それでむこうがこれなら米一升でとかな。

その時は18やったからな。着物をもっとったんよ。2,3枚な。
それを疎開させとったから、助かったわけよ。
それを田舎に持っていって、お米に変えて。
お米なんかゆうのは高いもん、あの時分はな。

それこそ、ご飯炊いたら、一粒のお米も残さへんねん。
ていねいに、ていねいに食べてな。
それもなぁ、おなかいっぱい食べられたらええけど、食べられへん。
そやからもう、始末しーもって。ほんまにえらい大変で。
おかずなんかも、もう。

それでも、おばあさんらの物なんか出してな。
それを田舎に持っていって、何かおかずになるようなもんとかに変えてきてな。
それやからおかずゆうおかずなんか、ほんま食べへんかった。
ほんでも人間、生きてきた。

今思ってもなぁ、ほんまによう生き残った思うわ。


あの時は塊が落ちたような感じやったもん。
「ああ、うちの上に落ちた」って。
後から聞いたら、みんなそう思ったらしい。
自分とこのな、家に弾が落ちたって皆思ったと。


まあ、ええわな。あの時は助かったから。
ただ、あの戦後の。
あんなときは嫌や。

原爆落ちたら、その後草木も生えんってその時分は言われとったから。
もうぜんぜん誰も人がおらへんもん。


原爆落ちて10日くらいしてから市街地に行ってみたんや。
やけどなぁ、原爆が落ちてから火災が起きて。三日三晩。
よう燃えたで。広島の街、炎でまっかっか。
そやからなぁ、もう全部焼け野原。
かなり離れとる(避難していた)官舎でも、炎が見えるんやもん。
消しに行く人もおらんかった。みんなやられとるんやからなぁ。
だから後な、行ってみると、もう何にも無い。もう全部燃えてもた。
やから、今考えてみると、助かったのが不思議なくらい。

もう逃げる途中でも、敵の飛行機飛びよったからな。
やから助かっただけでもよかった。そのときはそう思ったんよ。
でも、それからいろんな事で不自由して。食べるもんもない。
(物々交換で)変えるもんもない。

始め、田舎の人はお金はいらんって言っとった。それよりも物でって。
ただ、あとでお金で買わなあかんようになったとき、どないしたらいいかって。



原爆から逃げる途中でひとがパタパタ倒れとった。
にげよったら、腰を悪くしたか足を悪くしたか、
(ある人が、)「助けてください、助けてください」って、手を伸ばしてきたけど、
こっちは逃げるので精一杯で、人を助けるどころか。
更に、おばあさんを連れとるもんやからな、早く連れていかなあかんってゆうきがあるもんで、
「すんません、すんません。」っていいながら、おばあさんを連れて逃げたんよ。
ものの下敷きになっとるとか、はさまれとるから。
かわいそうやとは思うけど。しかも自分一人やないから。

「どうなったかなぁ、あの人ら」って、後からは思うけど。
助けてあげたいとは思ったんやけど。

あんなん嫌やなぁ。ほんまつくづくそう思ったわ。


山の方へ逃げたんわな、皆逃げよったんよ。
高いほうがええかなと思って。
あとから考えたらわからへんけど。

その時に川を見たらな、焼けた子が、焼けた人がや。
あれは熱いんやろな、体が。焼けるんやろな。
川の中に飛び込んで。


私の姉さんもな、焼けて。
体がやけとるから、「熱い、熱い」言うてな。
そりゃそうや。皮膚が焼け爛れてな。
首から下、足のほうまで人間の皮が垂れ下がって。
こりゃ、もうあかんなと思ったけどな。
それでも、6日にやられて、20日ごろまでは生きとったよ。

そのお姉ちゃんと再会できたのは偶然でな。
(わたしが)官舎におるときに、知らん人が訪ねてきて来れてな。
その人が、「あなたのお姉さんがおる」って言うてな。
今はやけどして、歩かれん状態で、どこどこにおりますって。
こうやって親切に言ってきてくれた人がおってな。
それがなかったら、会わずじまいになっとった。

それから病院に連れて行ってな。
ただ病院って言っても、一時的なところで。薬を塗ってもろとった。
ただ病院の人も、もう3分の2が焼けてしもたらあきませんって言っとった。
普通のやけどじゃないからな、原爆のは。


それでも(そのやけどから)助かった人もおるんよ。
その代わり、その人らは治ったらケロイドってゆうもんになってな。
そんなもん、段々畑みたいなん。その爆弾にやられた跡。

おねえさんが亡くなる時に、
「おかあさん、きれいなお花がさいているでしょう。きれいなお花がたくさん咲いているわぁ」って言うから。
そやからおばあさんも、
「これはK,おねえさんはもうあかんわぁ。」って。そんなこと言い出したから。

そんなん見てみ。あれはなぁ。助かったのが不思議やと思うわ。


ああ、もう思い出してもゾッとするわ。
あれから60年が経っとるんやけどな。

今になっても原爆の検査に行きよるしな。


なかなか口ではうまくあらわされへん。あの体験はな。
もう二度とああゆう目にはあいとうないと思うだけで。


posted by OJ at 13:51| Comment(2) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
読みながら、怖いと思った。
原爆と原爆被害について『知ってる』と思ってた自分が怖くなった。これが忘れられていくことも、怖いと思った。
Posted by 具志堅 at 2007年04月20日 04:07
具志堅、ありがとう。

こんな話は、見たり聞いたりして決して楽しいもんじゃない。しんどいもんや。
それでも、俺らは決して避けていくべきではないと思う。
そういった意味で、こうやって反応してくれることはとてもありがたい。
Posted by OJ at 2007年04月22日 16:47
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
最近のトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。